父の太平洋戦争の軍歴

北アルプス 雲の平 木道

父は大正9年(1920年)12月生まれ、現在(2023年8月)102歳です。

生活に不自由な面が出て2018年からホームに入りましたが、穏やかに生活しています。

父の書類を整理しているとき、父自身の手書きの「軍隊経歴」という書類が見つかりました。

一人の太平洋戦争経験者の記録として紹介したいと思います。

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満州から南方へ転戦

父は愛媛県出身で、工業学校を卒業後、土木建築関係の軍属として満州に渡りました。

昭和16年(1941年)12月に太平洋戦争が始まり、直後に満州で徴兵検査を受け甲種合格となりました。

このとき21歳でした。

合格後愛媛に戻り、昭和17年1月に陸軍に入隊しています。

同年5月に「陸軍二等兵」としてふたたび満州に渡りました。

昭和18年の年末、南洋群島の「ポナペ島」へ転属となり、そこで昭和20年8月の終戦を迎えました。

日本に戻ったのは昭和20年12月になります。

父の手書きの「軍隊経歴」

父の軍隊経歴

「軍隊経歴」を表にしました

日付  階級    経歴
S17.01.10二等兵歩兵第百二十二連隊補充隊に入隊
第六中隊に編入
04.29坂出港出発
05.01釜山港上陸
04鮮満国境通過
06東安省雞寧県適道
独立守備歩兵第二十三大隊に転属
第一中隊に編入
07.10一等兵
S18.11.30南洋第三支隊第三大隊に転属
第一中隊に編入
12.14適道出発
16鮮満国境通過
20釜山港出発
S19.01.01上等兵
01.10南洋群島ポナペ島上陸
06.10独立歩兵第三百四十四大隊に転属
第三中隊に編入
S20.07.01兵長
12.11ポナペ島出発
24浦賀港上陸
26伍長
27復員

◆東安省雞寧県適道
東安省とは満州国にかつて存在した省で、現在の黒竜江省鶏西市滴道と思われます。

◆ポナペ島
現在は「ポンペイ島」と称されています。

ポナペ島について

「ポナペ島」は現在「ポンペイ島」という名称になっています。

ウィキペディア「ポンペイ島」の項の一部を抜粋します。

1914年10月、第一次世界大戦の際に、日本は4隻の艦船をポンペイに入港、無血で占領した。大戦終決後の1920年には国際連盟によって、日本の委任統治(C式委任統治)が認められた。日本の占領政策はこれまでの支配と異なり、同化政策をとったが島民に日本国籍は与えられなかった(婚姻は別)。

委任統治下で近代的な電気や水道、学校や病院などのインフラストラクチャーの充実が進み、同時に当地での農業、漁業を中心とする殖産興業が推進された。特に1922年に南洋庁支庁の設置により、日本からの移民も多数ポンペイに入植し、1945年の終戦時点では13,000人を超す日本人が居住していた。これはパラオ、サイパンに次ぐ三番目の規模である。

日本海軍は1940年に守備隊を初めてポンペイに駐屯させたのに続き、太平洋戦争開戦後の1942年には本格的な警備隊を配備した。それ以後も陸軍、海軍が兵力を補填して、西のトラック島(チューク島)にあった海軍の一大拠点の防備を担った。これに対しアメリカ軍は1944年2月15日の大規模な空襲に始まり、5月にかけてポンペイに攻撃を加え、コロニア市街は大きな被害を受けた。トラック基地が空襲で機能を失い、主戦場がマリアナ、フィリピンに移った同年6月以降、ポンペイは輸送の途絶した状況になったが、鮮魚や芋等の食料自給が可能であったことと、それ以後大きな攻撃を受けなかったことから、終戦までの1年余り比較的平穏な状況が続いた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%82%A4%E5%B3%B6

ポナペ島でのこと

父からは断片的な話しか聞いていません。

ポナペ島では連日、空襲と艦砲射撃が続き、戦友が直撃弾でなくなったこと。

沖合に敵艦隊が並び、いよいよ上陸してくるかと思いきや、ある日突然敵艦隊が一斉に消えてしまったこと。

その後は、敵からの大規模な攻撃はないものの、味方からの補給もなく食料に苦労したこと。

甘いものが欲しくて、手持ちの「塩」を現地の人の「砂糖」と交換し、あとで塩がなくて困ったこと。

海水からは簡単には「塩」がとれないこと。

復員するとき米軍から食料などが支給されたが、それを持って愛媛に帰る途中で盗まれてしまったこと。

同じような軍歴の方の戦記がありました

父と同じように、満州からポナペ島に転属になった方の戦記を見つけました。

菅原四郎「ポナペ島戦記」(PDF)

この方も昭和17年1月に満州に配属、昭和19年1月にポナペ島に転属、昭和20年12月に浦賀上陸となっています。

思うこと

米軍は「飛び石作戦」という作戦をとっていました。

当初はポナペ島を攻略する作戦だったようですが、より本土に近いサイパン島などの攻略に戦力を集中させました。

昭和19年7月以降、サイパン島、グアム島、テニアン島で、日本軍が次々と玉砕していきます。

父がそれらの島に配属されていたらたぶん生きて帰れなかったのではと思います。

父が生きて日本に戻れたのは「運」、私自身の存在もやはり「運」なのでしょう。